武将ギャラリー
あなたは、誰に生まれる?
収録されているのは、戦国の世を生きた実在の人物4,948人。そのうちの誰に生まれるかは、天が決めます。ここに並ぶ名将に生まれることもあれば、名も知られぬ国衆に生まれることもあります。
転生する名将たち
絵はゲーム用に描いたイメージです。人物の説明は史実と伝承をもとにしています。

おだ のぶなが
織田信長
1534–1582年・織田家
尾張の一勢力から身を起こし、桶狭間で今川義元を討って天下に名を轟かせた。上洛を果たし、古い権威を次々に打ち壊す。天下統一は目前だった。だが本能寺で家臣の明智光秀に背かれる。「是非に及ばず」の一言を残し、炎の中に消えたと伝わる。

とよとみ ひでよし
豊臣秀吉
1537–1598年・織田家・豊臣家
尾張の低い身分から信長に仕え、草履取りから成り上がったと伝わる男。本能寺の変の後、明智を討ち、柴田を破って天下を統一した。関白、そして太閤へ。検地や刀狩で新しい世の仕組みを築く。だが晩年の朝鮮出兵は失敗に終わる。辞世は「露と落ち露と消えにし我が身かな」。

とくがわ いえやす
徳川家康
1542–1616年・徳川家
幼い日々を、織田と今川の人質として過ごした。桶狭間の後に独立し、信長と手を結んで三河と遠江を固める。耐えて、待って、また耐えた。秀吉の死後、関ヶ原で勝って江戸に幕府を開く。最後は大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。天下は、最も辛抱強い男のものになった。

たけだ しんげん
武田信玄
1521–1573年・武田家
父を国から追い出して家督を握った。信濃を攻め取り、甲斐を強国へ押し上げる。法度を定め、治水に手腕を見せた名君でもあった。上杉謙信との川中島の戦いは名高い。そして西へ向かう途上、三方ヶ原で家康を破った後に病に倒れた。甲斐の虎の死は、天下の行方を変えた。

うえすぎ けんしん
上杉謙信
1530–1578年・上杉家
兄に代わって越後を統一し、関東管領を継いだ。軍神毘沙門天を深く信じ、自らを毘沙門天の化身と称したとも伝わる。宿敵武田信玄に塩を送ったという逸話は有名だ。川中島で、関東で、戦い続けた生涯。手取川で織田軍を破った翌年、急な病で世を去った。

だて まさむね
伊達政宗
1567–1636年・伊達氏
伊達家の当主。幼い頃に病で右目を失い、独眼竜と呼ばれた。摺上原で蘆名氏を破り、南奥羽を一気に手中に収める。小田原への遅参では、死に装束で秀吉の前に現れたと伝わる。豊臣と徳川の世を巧みに泳ぎ切り、仙台の町を開いた。海の向こうへ使節まで送った男である。

さなだ ゆきむら
真田幸村
1567–1615年・豊臣家
幸村の名で知られる。人質として各家を転々とし、関ヶ原の後は九度山へ流された。だが大坂の陣で城を出て出丸を築き、徳川勢を散々に苦しめる。最後は家康の本陣に迫って散った。敵からも日本一の兵と称えられた。生涯の大半を他人の都合で生きた男の、最後の輝きである。

あけち みつひで
明智光秀
1528–1582年・織田家
美濃の出とされ、足利義昭と信長の間を取り持って頭角を現した。丹波の平定などで重く用いられた教養人である。だが本能寺で主君の信長を討つ。なぜ背いたのかは、今も最大の謎の一つ。直後の山崎で秀吉に敗れ、落ち延びる途中で命を落とした。天下はわずかな間であった。

いしだ みつなり
石田三成
1560–1600年・豊臣家
近江の寺で茶を出し、温度を変えた三杯で秀吉の心をつかんだという逸話が残る。五奉行の一人として検地や兵站を担い、佐和山城主となった。秀吉の死後は家康と対立し、関ヶ原で敗れて処刑される。嫌われ者と言われながら、最後まで豊臣家への義を貫いた男である。

いまがわ よしもと
今川義元
1519–1560年・今川家
はじめは僧として育ったが、花倉の乱を制して家督を継いだ。武田、北条と手を結び、三河まで勢力を広げる。海道一の弓取りと呼ばれた大大名だった。だが桶狭間で、わずかな兵の信長に本陣を突かれ、討ち取られた。歴史に残る大逆転の、負けた側の主役である。

もうり もとなり
毛利元就
1497–1571年・毛利家
安芸の小さな国人から身を起こした。謀略と婚姻を駆使して大内、尼子を相次いで退け、中国地方十か国の覇者となる。一本の矢は折れても、三本束ねれば折れない。三人の子に結束を説いた三本の矢の逸話は名高い。戦国一の知将と呼ばれる、遅咲きの大器であった。

しまづ よしひろ
島津義弘
1535–1619年・島津家
島津義久の弟。木崎原では、わずかな兵で伊東の大軍を破った。朝鮮の泗川でも大軍を退ける。そして関ヶ原。西軍が崩れる中、退くのではなく、敵の真ん中を突っ切って薩摩へ帰った。島津の退き口と呼ばれる伝説の撤退である。多くの犠牲を払いながら、鬼島津の名を天下に刻んだ。

まえだ としいえ
前田利家
1539–1599年・織田家
若い頃は槍の又左と呼ばれた傾奇者。派手な身なりで暴れ回った問題児だった。柴田勝家の与力として北陸攻めに従い、のちに秀吉の天下取りを支える。五大老の一人に数えられ、加賀百万石の礎を築いた。若き日の暴れん坊が、天下の重しになったのである。

くろだ かんべえ
黒田官兵衛
1546–1604年・小寺家・豊臣家
官兵衛の名で知られる、秀吉の軍師。中国攻めや九州平定で知恵を絞った。荒木村重の説得に向かい、有岡城に一年近く閉じ込められる。救い出されたとき、足は不自由になっていた。豊前中津を治め、関ヶ原では九州で独自に兵を動かす。天下を狙ったとも噂される。

ほんだ ただかつ
本多忠勝
1548–1610年・徳川家
徳川四天王の一人。数えきれない戦に出ながら、生涯一度も傷を負わなかったと伝わる。名槍蜻蛉切と鹿の角の兜が目印。信長や秀吉からもその武勇を褒め称えられたという逸話が残る。関ヶ原の後は伊勢桑名の大名となった。戦場で無傷、それ自体が伝説である。

なおえ かねつぐ
直江兼続
1560–1620年・上杉家
樋口家に生まれ、直江家を継いで上杉景勝の右腕となった。兜の前立に愛の一字を掲げたことで知られる。関ヶ原の前には、家康を挑発する書状を送ったと伝わる。直江状と呼ばれ、家康を激怒させたという。戦後、上杉家は減封されたが、兼続は米沢の城下を整えて家を支えた。

おいちのかた
お市の方
1547–1583年・織田家・浅井家・柴田家
信長の妹。戦国一の美女とも称される。浅井長政に嫁いで三人の娘を産んだが、兄が夫を滅ぼした。のちに柴田勝家に再び嫁ぐ。だが北ノ庄城も秀吉に囲まれる。娘たちを城から逃がし、自らは勝家とともに炎の中に残った。二度の落城を生きた女の、最後の選択であった。

ちゃちゃ
茶々
1569–1615年・浅井家・豊臣家
浅井長政とお市の長女。父を、そして母を、落城の炎で失った。その仇ともいえる秀吉の側室となり、淀殿と呼ばれて秀頼を産む。秀吉の死後は豊臣家の実権を握った。だが大坂夏の陣で城は落ち、秀頼とともに自害。三度目の落城が、彼女の最期の場所となった。

せんの りきゅう
千利休
1522–1591年・豊臣家
堺の魚問屋に生まれ、信長と秀吉の茶頭として天下の茶の湯を導いた。狭く質素な草庵の茶を極め、黄金の茶室を好む秀吉とは美の感覚が違った。やがて秀吉の怒りに触れ、自刃を命じられる。理由は今も諸説ある。だが彼の美学は、今も茶道の根っこに生きている。

みやもと むさし
宮本武蔵
1584–1645年・細川家
二刀を使う二天一流の祖。巌流島で佐々木小次郎と戦うなど、生涯六十余度の勝負に一度も負けなかったと伝わる。決闘にわざと遅れて相手をいら立たせた、という逸話も有名だ。晩年は熊本で五輪書を書き上げ、書や絵にも優れた。剣の果てに、筆を手にした男である。
このほかにも、公家・僧・商人・姫・国衆まで、4,948人が収録されています。
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